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公開講座で池上道を歩きました。(2)<平成29年11月22日>

平成29年11月22日(水)
 
11月18日(土)、都民の皆様を対象に都立田園調布高校公開講座を開催しました。「池上道を歩く」の第3回目で、講師は本校地理歴史科の教員が務めています。
今回も雨模様の一日です。長年、公開講座をやっておりますが、雨に降られたことがないのが自慢(笑)だったのに、今年は1回目が台風、2回目も雨にたたられて、今回(3回目)もまた、雨模様のスタートとなりました。
観蔵院
真言宗智山派峯松山観蔵院(正善寺)は鵜の木光明寺の加行道場として創建の古刹です。寛文元(1661)年、三河国鳳来寺より薬師如来(峯の薬師如来の写し)を勧請したとされ、薬師堂は正徳3(1713)年の建立と言われています。

女堀
観蔵院から六郷用水路に出て、女掘の坂を見学。
六郷用水開削時、この辺りは高低差と硬い岩盤で開削工事は困難を極め、作業に女性を動員して、男女が力を合わせて能率を上げたことから呼ばれたとも言われています。

嶺白山神社
六郷用水路から環状8号線を越えると嶺白山神社に出ます。峯の薬師の請来と同じ寛文年間(1661~72年)に、女体権現社として創建。この場所は、多摩川河口三角州の要の位置に当たり、河岸段丘上にあって、六郷用水は神社近くの女堀で、陸地側に切れ込むようにして、多摩川から離れるように作られています。
当初の名称である女体権現社は、他にも武蔵国橘樹郡馬絹村((現川崎市高津区馬絹)矢上川上流部に位置し、かつての多摩川蛇行部にあたる)や、同郡南河原村(現川崎市幸区幸町)、同郡戸手村(現川崎市幸区紺屋町)、久良岐郡富岡村(現横浜市金沢区富岡東)等
いずれも湊に関係する地点に建てられた神社である。その後、前を筏道が通っていることもあり、木に関係する(御嶽神社も同じ)ところから明治初(1868)年に嶺白山神社に改称したと言われている。境内には庚申塔があり、古くからの村落共同体の存在が確認できる。

筏道を歩く。
筏道とは、江戸中期以降、奥多摩方面で木材を伐採し、青梅で筏に組み、多摩川を下り、六郷・羽田まで回漕した筏師たちが、陸路で青梅に戻る道のことです。明治期になると、殆ど玉川の土手を歩いて帰ったが、それ以前は、内陸の多摩川河岸段丘の上を歩いており、環状8号線に沿って歩き、世田谷区宇奈根あたりで多摩川土手に下りたということです。
筏道の途中、鵜の木八幡神社に立ち寄りました。
文明18(1486)年、当時関東をほぼ手中にしていた扇谷上杉定正が家宰の大田道灌を暗殺したことで、状況が激変し、関東管領山内上杉顕定は、扇谷上杉との戦端を開きました。間隙を突いた駿河今川氏の客将伊勢宗瑞(後の北条早雲)が関東に進出する契機となり、この時、鵜の木周辺には、下野国佐野より天明伊賀守光信の子五郎右衛門光虎が移り住み、山内上杉、そして後北条方との最前線の防衛を担当することになったということです。
鵜の木八幡神社は、天明五郎右衛門光虎が、一族の守護神として建てた神社と言われています。この天明家は、平安時代に河内国から下野国佐野へ移住した鍛冶師を祖として、鵜の木一帯の開拓に尽力しました。後に帰農し、鵜の木の名主になったそうです。小平市にある「江戸東京たてもの園」には、天明家旧家屋が移築・保存されています。
鵜の木八幡神社は増明院(前回訪問)が別当を務めており、寛文年間、鵜の木を所領にしていた青山因幡守(当時は旗本、後に大名になる)が社殿を修理したが空襲で焼失した。現在の真新しい社殿は平成12(2000)年再建されたものです。
なお、下の写真の石の柵の中に見える鉄枠で補強された石灯篭は、元禄年間に天明一族から奉納されたものです。

昭和のくらし博物館
筏道をさらに進んで行くと、昭和のくらし博物館(旧小泉家住宅)があります。
国の登録有形文化財になっている木造2階建、切妻造瓦葺の住宅で、昭和26(1951)年に住宅金融公庫の融資を受けて建てた住宅、いわゆる公庫融資住宅の初期の建物なのです。
昭和の生活が展示されており、夏は建具をすだれに替え、冬は火鉢に火を入れる。四季の変化に応じて暮らしていた庶民生活が再現されています。台所では、土間にあった井戸とかまどで煮炊きを行い、お茶の間の主役はテレビではなく、ラジオでした。

藤森稲荷へのぬめり坂を下りて、環状8号線の藤森稲荷前の交差点に出ます。そこは、六郷用水路と重なり、北行・南行の用水が分かれる地点です。
藤森稲荷は、前回見学した光明寺の敷地内神社でした。

池上本門寺に向かいます。
江戸時代に池上道として使用された六郷用水路を歩きます。
前回見学した新田義興の灰塚の後ろを六郷用水路は通っています。これからは住宅街の中をくねくねと曲がったりしながら、大正から昭和にかけて、農村地帯が市街化し、川崎や多摩川河畔に建設された軍需工場に部品を納入する池上の中小工業地帯に入りました。
人口増加に伴い、家庭排水などの垂れ流しで水質が悪化し、暗渠化していった六郷用水の暗の部分は、そのまま池上の空襲にも結び付いていることを学びながら歩きます。
池上本門寺(長栄山大国院池上本門寺)は、日蓮宗の大本山の一つです。
弘安5(1282)年、身延山から常陸で向かう途中に立ち寄り、創建しました。日蓮は、その後大坊本行寺で亡くなりますが、当地を治めていた池上宗仲は約7万坪の邸宅他を寄進し、日朗が、現在の地に池上本門寺の礎を築きました。
慶長年間に徳川家康から寺領100石を寄進されたり、肥後熊本藩加藤清正や加賀金沢藩前田利家、紀州德川家等諸侯の祈願所となり、多くの保護を受けてきました。
また、慶應4(1868)年には、東征軍東海道先鋒の本営も置かれました。
 
総門(大田区指定文化財)
昭和20(1945)年4月15日の戦災を免れた数少ない建造物で、簡素ながら壮大な門です。扁額「本門寺」(大田区指定文化財)は、寛永4(1627)年本阿弥光悦の筆です。
理境院(妙祐山理境院。池上本門寺末の池上三院家)
古来より朱塗りの山門(赤門)を許され、慶應4(1868)年3月9日、勝海舟の依頼を受けた山岡鉄太郎(鉄舟)は、薩摩藩士益満休之助(この後、上野戦争で戦死)を伴い、駿府で東征軍参謀・新政府参与西郷吉之助と会見。10日、山岡は江戸に戻り、勝に報告。11日、駿府を立った西郷は、12日、池上本門寺理境院に泊る。この日、勝は東征軍本営の置かれた池上本門寺を訪ね、翌13日の会談を申し入れた。13日、西郷は三田薩摩藩邸に入り、勝と会談(~14日。3月15日が江戸城総攻撃の予定日であった))した。
 
此経難持坂
加藤清正の築造寄進。母の7回忌にあたる慶長11(1606)年、追善供養のため、祖師堂を建立寄進し、併せて寺域内整備を行ったという。坂の名は、『妙法蓮華経』見宝塔品第11、此経難持の偈文96字に因んでおり、「子持ち石(石の中に小粒の石粒が混じる)」と呼ばれる部材は、現在採石中止の相州産で、所々、他の石を使用して補修した後がある。末法の世に法華経を受持することの至難を忍び、信行することの尊さを石段を上ることの苦しさを対比させ、経文を暗唱しながら上ると疲れないとの言い伝えがあるそうです。
池波正太郎の鬼平犯科帳には、本門寺暮雪という話がある。著者が選ぶベスト5の1つに挙げられている。そこでは、長谷川平蔵がこの坂で死闘を繰り広げる話であるが、そもそもこんな勾配のきつい坂で切りあいが出来るものかと思ってしまいます。

仁王門(山門)
山門とは、三門とも呼ばれ、正式には三解脱門の略です。三種の解脱((1)一切を空と観ずる空解脱。(2)一切を差別相のないことと観ずる無相解脱。(3)その上で、さらに願求の念を捨てる無願解脱の3三昧)を求める者だけが通ることが出来る門ということです。
例年、盛大に催される池上本門寺「お会式」のお逮夜(10月12日夜)の万灯行列が支障なく潜ることができるようにと、下層の桁と梁を高くしているのが特徴です。また、扁額「長榮山」の字は、火伏せのために冠を「火」二つでなく、「土」としています。

大堂(祖師堂)
江戸の人々が「池上(本門寺)の大堂、上野(寛永寺)の中堂、芝(増上寺)の小堂」と呼んだ祖師堂で、加藤清正が母親の追善法要の為に寄進建立したものです。
もとは間口25間(約45.5m)の堂々たる建物だったようで、現在の建物は享保8(1723)年に8代将軍吉宗が用材を寄進し、普請奉行大岡越前守忠相(当時は寺社奉行)が当時の倹約令(享保の改革)により、間口を13間(約23.6m)に衆苦笑して再建されたものが基準になっております。
もともとの間口25間は、清正(身長六尺三寸(約190cm)が有名な蛇目長烏帽子形兜二尺五寸(約62cm)を被ったまま縁の下を通ることができるものだったといわれています。
 
この後は、待ちに待った昼食タイムです。名物「本門寺蕎麦」をいただき、冷え切った身体と、3回の講座全部が雨降りという冷え切った心を癒されました。

池上本門寺の建物をゆっくりと見ていきます。
 
経蔵(方三間宝形造。裳階付のため外観は方五間二重屋根となる。総欅造)
最初の経蔵は宝永7(1710)年焼失。享保2(1717)年、水戸徳川家3代綱條(実父松平頼重は2代光圀の兄で讃岐高松藩初代藩主。頼重・光圀の生母谷久子が日蓮宗)を大檀那とし、再建。天明4(1784)年松平周防守(石見浜田藩松井松平家)室と松平播磨守(常陸府中藩水戸家連枝)室を本願主として再々建される、戦災を免れた貴重な建築です。
堂内の輪蔵(~蔵の中心に軸を設け、経典を収めた蔵ごとに回転させることができる)には、天海版一切経が架蔵されていた(現在は、別に保管:大田区文化財)そうです。
 
鐘楼堂(梵鐘)
正保4(1647)年、紀州德川家初代頼宣の正室瑶林院(加藤清正の娘)が寄進したもので、梵鐘は、正徳4(1714)年に改鋳、当初の銘文が残り、戦災で、一部に亀裂と歪みが生じたが、傍らに安置されています。
 
前田利家室層塔(大田区指定文化財)
元和8(1622)年造立。加賀金沢藩3代利常の母寿福院の逆修塔で、もとは11層だが、今は5層だけ残っています。

加藤清正正室層塔
寛永3(1626)年造立。加藤清正の正室(正応院)の逆修塔で、これももとは11層と言われてます。
 
五重塔(関東に4基現存する幕末以前の五重塔の内、最古)旧国宝指定、重要文化財
慶長12(1607)年建立。初層のみ和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)で、二層以上は唐様(扇垂木・高欄付廻縁など)とする点や上層への逓減率が少なく、相輪長が短い点、芯柱が初層天井の梁上に立つ点などあり、極めて貴重な塔建築と言われてます。
ちなみに日本最古の五重塔は、「柿食えば、鐘が鳴るなり、法隆寺」の五重塔で、天武8(680)年の建立。その次が奈良室生寺、3番目が京都醍醐寺で、ここまでが西暦では3桁年号です。

本門寺の五重塔は関東最古ですが、ベスト10を外れ、古さで11番目。東日本で一番古い五重塔は、山形県羽黒山の五重塔で、全国でも6番目の古さです。
では一番新しい五重塔は、というと、つい最近までは世田谷区尾山台の伝乗寺が平成17(2005)年に建立したものでしたが、今は平成23(2011)年建立の香川県高松市讃岐法然寺(讃岐高松藩松平家菩提所)の五重塔までは調べてありますが、まだまだ新しい五重塔が全国でもできているのではないでしょうか。

讃岐高松藩主松平讃岐守頼真正室(永昌院)墓
五重塔で出た讃岐高松繋がりで、永昌院薫姫は紀州德川家6代宗直の娘です。徳川宗直は宗家の吉宗が8代将軍に就任し、支藩の西条藩主から宗家の家督を継ぎました。
讃岐高松藩は、城中では近江彦根藩井伊掃部頭家、陸奥会津藩松平肥後守家と肩を並べ、黒書院溜之間に代々詰める家柄で、重要事について幕閣の諮問を受け、将軍に直接面会し、自分の意見を述べることが出来る立場でした。また、儀式の際には老中よりも上席に座り、その格式は非常に高いもので、外様の薩摩島津家や仙台伊達家と並ぶものでした。
この格式は、元と言えば3代将軍家光が我が子家綱の補佐を3家の当主(井伊直孝<譜代筆頭>・保科正之<2代秀忠実子で家光の弟>・松平頼重<水戸家長子で光圀の兄>)に命じたことによります。

力道山の墓
さらに暮域を奥まで進み、力道山の墓まで行きました。大相撲の力士からプロレスラーになった異色の人です。

力道山は几帳面な性格で、人々に愛されたとのことです。そこで、几帳面とは何か。
寺社建築は円柱が基本になりますが、裳階柱や庇などには方柱が使われます。几帳面とは方形の角を撫角に削り、その両側に段をつけたものを言うそうです。几帳を支えるための柱に用いられた手法であり、この面取りの形を几帳面と言い、気を付けて行う様を言うようになったとのことです。
最後は雨の中の散策になりましたが、「池上道を歩く」として始めた公開講座も、無事に終了することができました。
最後に一句「冬の雨 歩道の枯れ葉 濡れそぼつ」

 
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