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公開講座で中原街道を歩きました。<平成30年5月31日>

平成30年5月31日(木)

5月26日(土)、都民の皆様を対象に都立田園調布高校公開講座を開催し「中原街道」を歩きました。講師は本校地理歴史科の教員です。参加された9名の皆様と田園調布高校を出発し、先ずは足慣らしのため観蔵院に向かいました。
 
峯松山観蔵院正善寺は、真言宗智山派高畑宝幢院の末で玉川八十八ヶ所57番札所。鵜の木光明寺が真言宗寺院であった頃、その加行道場として創建。三河国鳳来寺より勧請した「薬師如来」が“峯の薬師”として江戸時代に崇敬を集めました。
 
六郷用水とは、江戸時代の農業用水です。
天正18(1590)年小田原攻めの結果、徳川家康が関八州を与えられ、江戸に入府しました。家康は江戸周辺の開発に次々と手を付けます。小泉次大夫吉次は、江戸時代初期の旗本・代官で、先祖は駿河国富士郡小泉郷(富士宮市小泉)の今川家臣植松家、家康に仕えた時に「小泉」姓を名乗ったといわれています。
家康から新田開発の代官に抜擢され、多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して採用され、以降稲毛・川崎領に移り住み、用水奉行を務めています。
慶長2(1597)年、二ケ領・六郷用水に着手。小杉(小杉陣屋町)と狛江に陣屋を設ける。
慶長16(1611)年、二ケ領・六郷用水完成。「四ケ領用水」「次大夫堀」とも呼ばれる。
二ケ領用水は、多摩川の水を布田の上河原堰から取り、川崎市の北から南へ縦貫する。
 
六郷用水は、狛江から取水。大田区に至る延長23kmで、49カ村、約1500haに水を供給した。
小泉次大夫は、使役に駆り出される領内農民たちの負担を考えて、両用水の工事を3ヶ月交互に進め、延べ15年の歳月を要して完成させたと言われています。
 
六郷用水沿いに女堀から密蔵院に向かいます。
真言宗智山派明楽院密蔵院は高畑宝幢院の末で玉川八十八ヶ所霊場56番札所です。
寺伝では慶長末期に本堂が火災で焼失。本尊はじめ総てを失うとあり、檀徒の森庄兵衛(2代元和5年5月4日没)が本堂を再建して森立寺と改称しました。古くから沼部の庚申として有名です。
観音堂は、もと寺から西200mの多摩川の傍らにありましたったが、多摩川の洪水で堂宇が流出し、7体の観音菩薩像も流され、うち2~3体が光明寺池に流れ着きました。しかし、他の観音菩薩像は行方不明になりました。観音堂のそばにあった榎の樹が枯れていたので、この木で観音菩薩像をつくりました。この観音菩薩像は雷除け観音と呼ばれておりまして、新田義興が延文4(1359)年、矢口渡で謀殺された時、義興の怨念が雷火となり、竹沢左京亮・江戸遠江守の将兵を脅かした時、将兵が観音堂に逃げ込み、難を逃れたことから「雷除け観音」と呼ばれるようになったということです。
庚申供養塔は、寛文元(1661)年造立の大田区最古の庚申供養塔です。舟型石に地蔵菩薩像を彫った形態は、初期の庚申供養塔の様式を示しています。
庚申信仰とは、中国道教の説から始まったとされ、庚申の夜に眠ると三尸(さんし)が体内を抜け出し、天帝に宿主の罪悪を告げ、寿命を縮めるとされ、仙人が長寿を保つのは、修行により三尸を体内から排除したためであると言われています。そして、庚申の日は、金気が天地に充満し、人の心が冷酷になりやすいとされていました。8世紀には「守庚申」として庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすことがあり、また、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊」と称する宴をはるのが貴族社会の習いでもありました。
 
密蔵院から桜坂の入口にある東光院へ
真言宗智山派有慶山東光院は小杉西明寺の末で、玉川八十八ヶ所霊場55番札所。
境内に入り左手、本堂の前、大師像の裏に、高さ数十センチの「勇士の碑」があります。
江戸開城、彰義隊の上野戦争などで江戸市中は避難民が右往左往し、どさくさに紛れて暴行略奪が繰り返されていた明治元(1868)年6月5日。諸方遍歴中の「某藩の勤王の志士」3名がここ、沼部に来たそうです。苛立った住民との間で争いになり、1名が東池の畔で殺され、他の2名は逃れて、近所の医師森家に救いを求めたが断られてしまい、とうとう多摩川の河原で殺されてしまった。のちに森家が東光院に墓を建て、供養しました。
「勇士碑」と題した下に「常楽院苦心解脱居士」「安楽院迷心得脱居士」「明楽院疑頊心悟居士」という3名の法名が並んでいます。殺された「某藩の勤王の志士」は、何者かはわかりません。あるいは逃れてきた、彰義隊の落武者だったかもしれません。
沼部から丸子の渡しを渡り、中原街道を逃げ延びようとしたのかもしれません。
 
東光院の傍らを流れる六郷用水に沿って歩くと湧水が見られ、亀や鯉などに癒されます。
やがて、中原街道にぶつかり、六郷用水は暗渠になりますが、そこに大田区最古の隧道が彫られています。最近流行のマンホールの蓋マニアには、垂涎の蓋があるところです。
隧道を越えると、多摩川浅間神社があります。
浅間神社で、多摩川の流れを見ながら、丸子の渡しや武蔵小杉の陣屋付近を確認して、昼食休憩に入ります。
 
午後は、多摩川台公園に向かいます。
 
宝莱山古墳:東京都指定遺跡。多摩川台公園西北端にあり、全長97mの大型前方後円墳で、「宝来山古墳」とも書かれています。この地域最古の古墳で4世紀に築造されました。
古墳名に関係する名称の地図への記載は、明治39年測量の陸地測量部地図「溝口」に字名として「寶来」があるのが最初です。その後「寶来山」、「蓬莱塚」などと書かれるようになり、1992年都文化財目録で「宝来山古墳」と記載、1996年に都旧跡から都史跡への種別変更に伴い、「宝莱山古墳」と変更されました。
この地域最古の古墳で、全長97m、後円部径52m、前方部幅38m、後円部高さ11m、前方部高さ8mと推定されています。後円部は、昭和期に入ってからの宅地開発と土取りにより主体部が殆ど破壊されており、3分の2が削平されて4棟の住宅が建ち、墳端の形状は隣接する道路の曲りとして残されています。くびれ部から前方部にかけては、比較的よく残されていますが、その先端部分は削られて、公園横断道路に面した石垣となっています。1934年の宅地造成時に後円部の墳頂下約3mのところで粘土槨の埋葬施設が発見され、鏡、勾玉、鉄剣身残欠など、多数の副葬品が出土しました。
現状は、前方部は樹木が木立をつくり、後円部は草原。横の広場からくびれ部を上って反対側の正門へ下りる湾曲した歩道が作られ、両側に山野草が植えられて、「山野草のみち」となっています。
亀甲山古墳:亀甲山(かめのこやまこふん)は多摩川台公園東南部にあり、5世紀前半頃の築造です。全長107m、前方部長さ41m、後円部直径48m、高さ10mで、荏原台古墳群で最大の古墳です。昭和3年に国の史跡に指定されています。
発掘作業が行われていないため、出土品はありませんが、4世紀後半から5世紀前半頃の築造と考えられ、当時この地方に勢力のあった首長の墓とされています。
現状は、上に樹木が生い茂り、周りに柵があって中には入れません。
多摩川台古墳群:亀甲山古墳と宝莱山古墳との間に南東部から順に1号から8号までの8基の古墳があり、多摩川台古墳群と呼ばれています。1・2号墳は、小型前方後円墳と円墳が複合したもので、他はすべて円墳、直径が18m前後、高さが2m前後。また、1号墳から7号墳までは1列に連なっており、8号墳だけは少し離れています。いずれも6世紀後半から7世紀中頃までに築造されたと考えられています。
現状は、古墳列は上は木立で両側に歩道が通り、3か所の横断歩道もあり散策できます。
浅間神社古墳(せんげんじんじゃこふん):多摩川浅間神社にある前方後円墳で、築造は6世紀前半と見られています。後円部の直径は30mで、全長は推計60mです。後円部は、削平されて神社の社殿が造営されています。前方部は多摩川台公園との間の東急東横線の線路にまで延びていたと推定されています。
観音塚古墳:宝莱山古墳の北西約150mにあった古墳で、現在、墳丘は失われています。1947年の発掘調査で全長42.5m、前方部幅26.5m、後円部径22m、高さ4mほどの前方後円墳と推定されました。埋葬施設は、両袖式の横穴式石室で、直刀、ガラス玉など多数の副葬品が見られました。1817年に墳丘から人物埴輪が発見。6世紀末の築造とされます。
 
多摩川台公園から田園調布へ
田園調布は、大正7(1918)年に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた田園都市株式会社(現、東急電鉄・東急不動産)が開発し、大正12(1923)年8月から分譲が開始された地域で、大部分は大田区になります。なお、世田谷区にも玉川田園調布がありますが、田園都市株式会社が多摩川台住宅地として田園調布と一体に造成・分譲を行った地域です。
田園調布住宅街の多くの町内会が、社団法人田園調布会に属しています。
開発当初は、昭和初期に出現した中堅層(中流階級→旧制大学や旧制高校卒の中間管理職(部課長クラス)向けの住宅地(世田谷区にある瀬田・上野毛等、国分寺崖線上の住宅地と同じ)でした。(しかし、これらの地域には、関東大震災後に都心の富裕層が移り住むことになります)が、田園調布に実際に居住して、街の開発と発展を推進した渋沢栄一の子渋沢秀雄は、「私は田園調布の西側に半円のエトワール(仏語で星の意)型を取り入れてもらった。この分譲地のサイト・プランを依頼した矢部金太郎君に注文をつけたのである(『随筆 街づくり わが町』)」とエトワール型の道路を造り、街路樹を植え、広場と公園を整備し、庭を広く取り緑地の一部とし、街全体を庭園のようにする良好な居住環境を作り上げました。この地は、国分寺崖線の良好な地盤の上にあることから、関東大震災後に都心から多くの人々が移住しました。
開発当初から田園調布駅西側に広がっている扇状に整備された区画は、その銀杏並木と共に「高級住宅地」としての趣を備え、地元自治会として大正15(1926)年に設立された「社団法人田園調布会」があり、住宅の新改築に際しては厳しい制限を求め、環境保全に努めています。
大田区によれば、田園調布が「日本で初めて庭園都市(ガーデンシティ―)として計画的に開発され分譲された地域」である(洗足田園都市、桜新町地区、あるいは箕面有馬電鉄沿線など、田園調布より早く分譲されたところもあるが、これらの地区はいずれも田園都市の定義を満たしておらず、庭園都市として開発されたわけではない。ただし、板橋区の常盤台は国が直接街造りに関わった地域であり、官営の常盤台と民営の田園調布が、共に最初の庭園都市・田園都市を名乗ることになる)。
 
田園調布の地名
古くから上沼部村と下沼部村があり、明治22(1889)年、鵜の木村と峰(嶺)村を合わせた4村が合併して「調布村」となりました。
住宅地としての「田園調布」は大正12(1923)年田園都市株式会社が「田園都市多摩川台」として分譲を始めたことによります。分譲地は多くが調布村に属し、一部玉川村にも属していました。同年目蒲線が開通し、「調布駅」開業します。駅名は村名からつけられました。
 
(初期の分譲住宅)
大正15(1926)年1月に「田園」の二文字が冠され、「田園調布駅」となります。東急電鉄によれば、「田園都市づくりから」とのことです。この時点での分譲地の一般呼称は「調布田園都市」であり、5月に創立した町内会組織「田園調布会」でも規約第1条には「本会は田園調布会と称し、調布田園都市地域内の居住者をもって組織す」とあります。しかし、駅名の「田園調布」が次第に地域名となり、当初は田園都市株式会社が分譲していた地域(大田区田園調布と世田谷区多摩川田園調布)を指しましたが、次第に隣接の下沼部一帯をも合わせて「田園調布」と呼びようになりました。
昭和3(1928)年東調布町となり、昭和7(1932)年東京市に編入。旧東調布町は大森区田園調布になります。旧玉川村地区の住民は大森区への編入を望みますが、世田谷区玉川田園調布となりました。ここで初めて行政区域の地名「田園調布」が誕生しました。
昭和25(1950)年田園調布南に開校した東京都立大田高等学校は、昭和28(1953)年2月に東京都立田園調布高等学校に改称します。
 
調布浄水場:田園調布三丁目の多摩川台公園南側には、かつて調布浄水場がありました。
多摩川の調布取水堰から水を汲み上げていましたが、多摩川への下水の流入による水質の悪化で、昭和42(1967)年に廃止されました。跡地は隣接する旧東急「松嶺荘」敷地とともに、多摩川台公園に組み込まれます。なお、玉川田園調布の環状8号線沿いに同じく調布取水堰を利用し、より規模の大きな玉川浄水場がありますが、ここも休止中です。
巨人軍多摩川グラウンド:田園調布四丁目の多摩川台公園虹橋下の多摩川河川敷には、昔、読売巨人軍多摩川グラウンドがありました。昭和30(1955)年に、読売巨人軍が国有地を借り受け、二軍の本拠地・練習場として使用していましたが、稲城のよみうりランドに新施設が設置され、平成10(1998)年に国に返還され、現在は野球場として一般公開中です。
田園コロシアム:田園調布二丁目田園調布小学校南側にありました。昔は慶應義塾大学野球場がありましたが、昭和11(1936)年に一部多目的スタジアムである「田園コロシアム」に、残りは「田園テニス倶楽部」に整備され、平成元(1989)年に閉鎖解体されました。
 
多摩川園遊園地:田園調布一丁目に、大正14(1925)年に「温泉遊園地多摩川園」が開園し、戦前は温泉と劇場、遊具を備えた郊外型複合娯楽施設がありました。戦後は、遊園地となり、一時は年間90万人を超える来園者数を誇りましたが、その後衰退して昭和54(1979)年に閉園。跡地は多摩川ラケットクラブ(~近隣に田園コロシアム)となり、現在は田園調布せせらぎ公園と宗教施設に分割されています。
 
多摩川園の脇に、大田区のトリビアがあります。「どりこの坂」
 田園調布一丁目と二丁目の境界にある坂道で、坂は途中で折れ曲がっています。坂下は、東急線の線路脇になり、かつての「多摩川ラケットクラブ」の脇を通っています。
講談社(大日本雄弁会講談社)が、戦前、経営多角化の一環として、昭和4(1929)年に軍医・医学博士の高橋孝太郎が発明した「高速度滋養飲料どりこの」の販売を開始しました。主成分はブドウ糖・アミノ酸で、5倍に希釈し飲用する濃縮飲料でした。1瓶450cc1円20銭(昭和5(1930)年の給与所得者年収平均738円、国家公務員初任給75円、大卒初任給73円、牛乳1瓶6銭、コーヒー1杯10銭、はがき1銭5厘、浴場5銭、新聞月額90銭、国家予算15.6億円、金g1.36円、総理大臣月給800円)で、全国の薬局で発売し、虚弱体質や腺病質に効果があるという触れ込みでした。この「どりこの」を講談社社長野間清治は、講談社で販売することにしました。当時、年間100万本を販売していましたが、戦争の激化で台湾からの砂糖が途絶し、昭和19(1944)年に製造中止になります。
「どりこの」を作った高橋博士の家が、この坂の上にあったので、もとは「池山の坂」と言われていたのが「どりこの坂」になりました。
ちなみに「どり」は、高橋博士がヒントを得た論文の作者アーノルド・ド―リックの「DORI」から、「こ」は孝太郎の「KO」、「の」は一番助手中村松雄の「N」と、3人の助手に共通する「O」からとられているとのことです。
 
田園調布駅(東急電鉄)
大正12(1923)年3月11日 目黒蒲田電鉄目黒駅-丸子駅(現、沼部駅)間開通と
同時に開業。開業当時は調布駅で相対式ホーム
同15(1926)年1月1日 駅名を田園調布駅に改称。
昭和2(1927)年8月28日 東横線の駅が開業し、東側に目蒲線用のホームが増設。3面4線となる。
平成2(1990)年9月4日 駅地下化のため、旧駅舎解体
同12(2000)年1月15日 旧駅舎を駅のシンボルとして復元
屋根はマンサード・ルーフという欧州中世の民家がモデルのもので、設計は神宮外苑の「絵画館」や「上高地帝国ホテル」、伊豆「川奈ホテル」などの矢部金太郎です。
開業当時には、2階に食堂があり、地域のランドマークになっていたということです。
駅設置当時は荏原郡調布村大字上沼部字旭野で、村名から「調布駅」となりました。
「調布」の由来は、古来、朝廷に調として手作りの布を納めていたことによるものです。



鎌倉時代。東急大井町線九品仏駅から多摩川方面への下り坂。田園調布雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと)と呼ばれる入り江であり、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であったといわれています。ここに物資を積んだ舟が盛んに出入りしていました。
中原街道は、鎌倉街道下つ道にあたり、篭谷戸の港にも接続していました。港を中心としたこの地域には、鎌倉武士が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地となっていたのです。
田園調布八幡神社の地は、港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所でした。鎌倉武士たちは、その要衝の地に鶴岡八幡宮から八幡神社を勧請しました。やがて、この地は、上沼部村になり、隣村(下沼部村)の東光院が別当寺でした。
次回は、10月20日(土)に、田園調布高校から洗足池までの中原街道を歩きます。


 
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