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公開講座で中原街道を歩きました。(2)<平成30年10月23日>

平成30年10月23日(火)

10月20日(土)、都民の皆様を対象に都立田園調布高校公開講座を開催し、5月26日(土)に引き続き「中原街道」を歩きました。講師は本校地理歴史科の教員です。参加された7名の皆様と一緒に田園調布高校を出発しました。

田園調布高校の脇にある新幹線の切通しは昭和15(1940)年の「弾丸列車」計画により品川(機関区)~小田原迄ほぼ直線にルートがひかれ、半ば強制的に、突然関係者が土地所有者の元に来て、話し合いなど一切せずに代わりに杭を打って帰り、買収価格の交渉等一切なかったそうです。

地主は相当安い価格で買い叩かれたと言われてます。応じなければ「非国民」のレッテルを貼られるので、言うがままに従わざるを得なかったそうです。ただし、時局柄、土地の買収を機に東京空襲から逃れることができたので好都合という面のあったとも言う人もおられます。

おいと坂は、坂下に「雄井戸(おいど)」と呼ばれる井戸があり、旧中原街道を隔てて西側にあった「雌井戸(めいど)」とともに地域の人々に親しまれてきました。昔、北条時頼(最明寺入道として諸国を遍歴したと言われ、水戸黄門諸国漫遊の種本に使われている)が、この地を訪れた際、上記の井戸水(l雄井戸で病を治したと言われています。
北条氏は鎌倉防衛ラインを多摩川に置き、多摩川西岸の地域の昔の郡衙等に兵站基地を置き、鎌倉の防衛線を固めていた。特に中原街道は、鎌倉街道下道と重なり、鎌倉防衛の重要拠点でもあったので、宮騒動などの反得宗勢力の一掃や宝治合戦などによる北条氏独裁政治の強化を行い、得宗専制政治の先駆けとなった時頼には重要な場所であったはずと言えるのではないでしょうか。

かつては「沼部の大坂」と呼ばれ、中原街道随一の難所と言われた、現桜坂は福山雅治の名曲で全国区になりましたが、昔は桜などなく、切通しの勾配がきつく荷車等の通行は大変だった地点です。写真の右側が現在の桜坂で、左側の登っている坂が昔の桜坂です。大正期の改修工事で緩やかに改修され、両側に桜が植えられたことから「桜坂」と命名されました。
旧中原街道を進み、大田区の出張所の建物が見える辺り、中原街道を横切る道に出ます。その道が江戸時代の筏道です。明治になると女堀を越えて、六郷用水沿いの道が一般化しますが、江戸時代は白山神社から今は環状8号線の下に消えた道を通り、御嶽神社に至る道と天祖神社から別れ、この道に入る筏道があったと言われています。筏道は、田園調布の外を回り、東京都水道局の敷地を通って、二子玉川の崖の上にある御嶽神社に繋がっていたと言われています。
江戸時代末、木曽の檜などの代わりに奥多摩の材木が江戸でも使用されるようになると、多摩川を下って六郷まで筏を組んで流す「筏乗り」が花形になりました。明治30年代が最盛期で、徐々に衰退し、大正末期に終焉を迎えます。
奥多摩から六郷まで4日かけて下り、一泊したあと、早朝暗いうちに青梅を目指して帰途に着きました。その帰る道を「筏道」と言います。六郷出は早朝4時前で、この辺りを通るのは5時前ではなかったでしょうか。

御嶽神社は、木曽御嶽山関東第一分社で、「嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曽御嶽山へ一回行ったのと同じ」と言われておりました。
本殿の周囲には、みごとな彫刻が施されています。作者は藤原篤意(あつおき)と伝えられており、社殿と同時期の天保2(1831)年に制作されたと伝わり、大田区指定文化財です。
御嶽神社の創祀は、嶺村ができた天文4(1535)年頃と言われ、最初は祠程度だったものが、天保年間に木曽御嶽山で修業した一山行者が来社して以来、信者が激増し、天保2年に現在の社殿が建立され、御霊を遷座したそうです。信者の中には江戸の豪商も多く、かなりの寄進があって、この壮麗な彫刻を施した社殿が完成した。
本殿の彫刻は、滝沢馬琴著の江戸時代最大最長の物語である「南総里見八犬伝」に由来したものであり、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の「三綱五常」をわかりやすく例示している。
見学順に「悌」は獅子相承図、「孝」は古今著聞集の孝子伝説、「礼」は浦島太郎と乙姫、「忠」は天辺雪落、「信」は伯芽絶弦「智」は日光東照宮の陽明門にもある司馬温公甕割り、「仁」は竜宮を去る浦島太郎、「義」は水垢離の彫刻になっています。
そして、もう一つ「鎮」があり、松の落ち葉という鬼門除けのマジナイがあります。
松は雌雄同株の針葉常緑樹で、古くから長寿の象徴として尊ばれてきました。春に「松の芯」と呼ばれる新芽を出した後に古い葉を落葉させます。
 
因みに御嶽神社の狛犬は、狼でした。
境内の延命地蔵は、昭和13(1938)年阪神大水害の際、兵庫県西宮市の夙川土手の地蔵の傍らで数人の女の子が助かった。
わが子を救われた親の一人が、その地蔵を引き取り、その後仕事の関係で大田区へ移住した際も移設して供養していたもので、現在は御嶽神社でお祀りしております。

次は、鵜木大塚古墳に向かいました。
こちらは荏原台古墳群の最も東側にある古墳で、旧鵜の木村の飛び地にあったことから「鵜の木大塚古墳」と名付けられましたが、一般的には「雪が谷大塚」と言われるものです。
円墳で高さは約6m、直径はおよそ27mあり、現在、その南隅を掻き落として、稲荷社を設置してあります。

この後、雪谷大塚駅に移動して、昼食時間を取りました。
午後は、雪谷大塚から石川橋まで、ゆっくり中原街道の坂を下ります。ここは、武蔵野台地西部の先端部にあたる荏原台・多摩川台で、多摩川右岸沿いから東部にかけての沖積低地と呼ばれる地域です。人の住む台地の一番高い所は、田園調布付近で海抜42.5m程、池上本門寺の高台でも25~35m程で、久が原辺りの台地底部が15m程です。そこから海に向かい傾斜して低くなり、平安末期には池上本門寺近くで呑川が江戸湾に流入し、平間道が海岸線になっていました。
奈良時代の海水面は、現在の海水面よりも約1m程低かったと言われています。それが10世紀初頭、ほぼ現在の海水面まで上昇しました。そして、11世紀前半には現在の海水面よりも約50cm低くなり、12世紀初頭には現在の海水面より逆に約50cm高くなったと考えられています。日本の歴史では、この平安海進の影響は大きく、特に関東地方は縄文海進
と平安海進という大規模な海進が顕著であったと言われています。
多摩川台の古墳から貝塚が発見されていますが、古墳時代と平安時代の海の領域が江戸と呼ばれた昔のこの地域に大きな影響を与えたことは、間違えの無いことです。
さて、今から13万年前の最終氷河期に海底であった淀橋台と荏原台が隆起を開始します。それによって古多摩川が隆起する台地を削り始めました。古多摩川は、現在の「井の頭公園」辺りを流れ、その川筋に目黒川の谷が刻まれました。そして、古多摩川は、現在の多摩川方向に移動を開始するのですが、その最初に刻んだのが呑川の谷で、削り残されたのが田園調布の台地です。
江戸時代以前には、「深沢流れ」と言われた「呑川」は、「石川橋」付近では、「石川」と呼ばれていました。

この写真は、「中原幹線取水口」と言われるもので、上流で集中豪雨がおき、一気に水位が上がると下流でも水害防止のために、中原街道地下に設けたトンネルを通って多摩川丸子橋上流地点へ放流させるバイパス水路施設です。
石川橋脇の中原街道脇に「石橋供養塔」があります。もともと土橋でしたが、石川橋の辺りは、呑川がよく洪水で溢れる場所で、安永3(1774)年に石橋に架け替えられたことを記念したものです。

昔の呑川中流域の石川橋(中原街道)から池上橋(第2京浜国道)辺りは、川幅が約5m、水深約1.5m程度の小川でした。その所々に堰が設けられ、水田に水を引いておりましたが、関東大震災後近郊に移り住む住人が急激に増え、木々が伐採されて、田畑も埋められて住宅地や工場用地に転用されていきました。このことが地域の湧水をなくし、その一方で保水力を失った台地に一たび大雨が降ると、その雨水が中小河川に集中し、洪水の原因ともなりました。 昭和に入りますと、池上西部耕地整理組合が結成されて、耕地整理を行い、それまで蛇行を繰り返していた「呑川」の石川橋から池上橋までをほぼ直線化しました。工事の完了後には、両岸に幅3間(5.4m)道路が出来て、そこには地元民と青年団の奉仕で、桜が2000本、両岸に植えられて、呑川の桜(長栄桜)として親しまれたということですが、今は無くなってしましました。
コンクリート護岸された呑川を宮前橋まで歩き、今度は宮前坂を登ります。
少し歩くと、雪ヶ谷八幡神社があります。

創建は永禄年間。小田原北条家氏康の家臣であった、太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)が管内巡視の際、当地で法華経曼荼羅の古碑が発掘され、その奇端八幡大菩薩を創祀したと言われ、江戸時代は雪谷の円長寺・長慶寺が別当として隔年で奉仕していたそうです。
一の鳥居の脇に社号碑があり、参道を進むと両部鳥居のニの鳥居と手水舎があります。工事中でしたが、手水の吐水口は狛犬型で、珍しいものです。手水舎の脇が三の鳥居で、石段を上がると権現造りの社殿があります。他社との比較で、拝所を覆う軒唐破風が大きく迫り出しているのが特徴的です。

横綱大鵬出世石は、大鵬が、まだ序二段の頃、雪ヶ谷八幡神社の境内で氏子の子供たちに相撲の稽古をつけていたそうです。昭和34年に新社殿造営が完成し、初めての節分祭に年男として参加して以来、横綱になるまで毎年節分祭に奉仕していたということです。

大鵬は、自分がこのようになれたのは「雪ヶ谷八幡神社の御加護の賜物である」と感謝し、『出世石』と書いた書を奉納しました。それを氏子が石に刻みました。
社殿の左手にある「力石」は、重さ約四十貫(約150kg)で、村の若者たちが力比べの使用したものです。
石川台の駅を越え、最初の坂道を登ります。この場所は、よく映画やテレビドラマに登場する坂道で、振り返ると石川台の駅がよく見えます。小津安二郎の映画にも登場する石川台駅のプラットフォームが初秋の陽に白く照り返していました。
坂道の先は、嶺道です。嶺道は呑川と洗足流れが削り残した台地で、往古には池上から九品仏まで直線で結ばれていましたが、今は中原街道で行き止まりになっています。
 
洗足池は、古い地名は「千束」で平安末期の文献に登場します。仏教用語の千僧供料の寺領免田で千束の稲が貢租(税)から免除されていたといわれ、浅草寺の名の由来と同じになります。また、日蓮の文章にも「千束郷池上」とあります。
弘安5(1282)年身延山久遠寺から常陸に湯治に向かう途中の、この池のほとりで休息し、足を洗ったことから「洗足」になりました。江戸名所図会の日蓮「袈裟掛け松」が残っていますが、これは江戸末期、御松庵(堀之内妙法寺の隠居寺)住職が作った話だそうです。
 
洗足池は湧水池で、流入河川はなく、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して流れ込んでいたと言われています。主な水源となる湧水が4か所あったそうですが、今は北千束1-26にある清水窪弁財天の湧水だけになっているそうです。
洗足池を出た水は「洗足流れ」となり、最後には呑川に合流します。次回の散策では、その流れの後を追う予定にしています。

千束八幡神社は、西のほとりに鎮座しています。応神天皇を祭神とし「旗挙げ八幡」とも呼ばれています。貞観2(860)年千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請されました。10世紀前半の平将門の乱に鎮守府副将軍となった藤原忠方が、この地に残り、氏神として祭り、池上姓を名乗ったと伝わっています。また、11世紀前半の後三年の役では、奥州討伐に向かう源義家が戦勝祈願をした場所と伝えられます。なお、藤原忠方は右大臣良相の子ですが年代的に合わない人物です。
源義家が活躍した時代は、摂関政治から院政に移り変わる時代で、政治経済はもとより社会秩序の大きな転換点になった時代でした。後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、河内石川荘の私財を部下に分け与え、それが源氏が武門の棟梁としての信望を高める原因となったと言われるが、このことは南北朝時代の貞和3(1347)年に成立したと言われる『奥州後三年記』には記述がありません。ただ、この本の元になった『後三年記』は、平安時代末期の天治元(1124)年の成立とも言われ、東国における武門の習いは源義家が整備したとして、その名声が武門の棟梁としての血脈の評価を高めたというのは、南北朝時代後期の軍記物である『源威集』から派生しています。この書物は、「源氏の威」、すなわち河内源氏の武家政権(鎌倉幕府と室町幕府)の正当性をうたっております。
足利家に伝わる伝承として、「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」という、八幡太郎義家の置き文が足利家には秘蔵されており、義家から七代目にあたる足利家時は、
自分の代では達成できないので、三代後の子孫に天下を取らせよう祈願し、願分を残して自害した。足利高氏(後の尊氏)が、北条氏打倒に立ち上がったのは、家時から三代後の子孫であり、それを見せられたからと言われています。しかし、このことには大きな疑問が残っています。1、義家の置き踏文が、嫡流の鎌倉将軍家ではなく、傍流の足利氏に継承されたのは何故でしょうか。2、義家の願望は、4代目である源頼朝により、達成しているのではないでしょうか。3.そもそも義家が生きた時代には、「天下を取る」との概念すらありませんでした。
治承4(1180)年、安房から鎌倉へ向かう途中の源頼朝が、この地に宿営したところ、池に映る月のような姿の逞しい野生馬が現れ、これを捕らえたといいます。
池月は、後に平氏討伐の宇治川の先陣争いで佐々木高綱を乗せ、梶原景季の磨墨と競うことになった。佐々木高綱は、源頼朝、義経、義仲らの従兄弟になり、宇治川の合戦では、初めは梶原景季の磨墨に遅れをとるが、高綱が景季に磨墨の腹帯が緩んでいるので絞め直すように薦め、その間に先陣を切ったと言われている。これを見た源氏の兵士は、旗を差し上げて大いに喜んだと言われています。
なお、高綱の館は、中原街道の先の、現、神奈川県横浜市港北区鳥山町にある鳥山八幡宮付近と言われ、愛馬池月を祀る馬頭観音堂があります。
佐々木高綱は、後世、日露戦争で活躍した乃木希典の先祖にあたります。
一方、磨墨ですが、大田区で産出したとも言われており、大田区南馬込3-18-21には、「磨墨塚」があります。また、横浜市青葉区美しが丘の保木地区も、生産地候補の一つで、ここは近くに畠山重忠の稲毛館もあり、磨墨と重忠の愛馬三日月は、ここから頼朝に献上されたと伝えられております。
 
勝海舟の墓に向かいます。

かつて、池のほとりに海舟晩年の邸宅「千束軒」がありましたが、戦災で焼失しました。
現在、勝海舟夫妻の墓になっています。勝海舟は、生前、夫婦の墓の場所を定めましたが、海舟の妻は、いろいろあって海舟の隣で眠ることを拒否し、青山墓地に埋葬されました。長年の経緯の中で、「もういいのでは」という近親者の思いもあり、今は墓石を並べていますが、実際はどうなんでしょうか。<閑話休題>
勝海舟の文庫であった、旧清明文庫は、現在、勝海舟祈念館に改修中です。<笑>
最後の散策場所は、日蓮袈裟掛け松です。 日蓮宗 星頂山妙福寺 別称御松庵

日蓮が、弘安5(1282)年に身延山から常陸に湯治に向かう途中で、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(現、池上本門寺)を訪れようとして、ここ大池にさしかかりました。その際、ここで休憩を取り、傍らの松の木に法衣を掛けて、池の水で手足を洗っていると、池の中から七面天女が現れたそうです。天女は、普段は身延七面山頂の湖水にいて、日蓮が身延在山中の守護をしていましたが、日蓮が旅立ちをしたのでこれについて道中守護をしていると告げ、日蓮の読経を受けて、消え失せました。後に、このことを記念して、土地の人達が堂宇を立てて、七面天女を安置したのが、御松庵のはじまりであると言われてます。やがて、法衣をかけた袈裟掛けの松を護る護松堂が建てられ、この堂から御松庵と呼ばれるようになりました。
この後、東急池上線洗足池駅前で解散しました。
 
次回は、11月10日土曜日。解散した洗足池から「洗足流れ」を歩き、長慶寺を経て、中延・旗の台を歩きます。



 
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