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公開講座で中原街道を歩きました。(3)<平成30年11月16日>

平成30年11月16日(金)

11月10日(土)、都立田園調布高校第3回公開講座「中原街道を歩く」を実施しました。講師は前回に引き続き本校地歴科の教員が務め、今回は東急池上線洗足池駅前に集合し「洗足流れ」を歩きます。

中原街道に面した駅前から池上線のガードを越えて、すぐに右折し、坂を下ります。
 
「洗足流れ」のスタートは、崖の下の用水路の湧き出し口から出発です。
洗足用水・池上用水とも呼ばれるこの水の流れは、全長1.5km程の短い流れで、洗足池を始点として東雪谷と上池台の境界を流れ下り、仲池上で呑川に注がれます。
洗足池を水源とする呑川の支流になり、昔から農業用水に利用されていました。
呑川の流域の中では、この地域は比較的水利に恵まれた穏やかな地域であり、江戸時代は大久保氏等の旗本の知行地でした。
洗足池という水源が、比較的大きな池であり、湧水にも恵まれていたので日照りが続いても水が枯れることもなく、農民も暮らしやすかったが、この地域は六郷の渡しの助郷役が課されており、その負担が大きかったようです。
 
「洗足流れ」は、地域の境界を流れているので、流れの左右では家並みなどの雰囲気にも違いが見られ、格好のお屋敷散歩の小道です。
 
雪谷山長慶寺は、「洗足流れ」の脇に立つ、池上本門寺の末寺です。元来は碑文谷法華寺の末寺として創建されましたが、江戸幕府による不受不施派の弾圧を受け、本門寺の末寺になりました。
 
長慶寺の境内にある「朝日稲荷」は、近くの池雪小学校(戦前は国民学校)の奉安殿が、社に使用されています。戦時中は池雪国民学校南門の左側に安置され、児童は奉安殿に最敬礼して登校したと言います。奉安殿の前では、週番の児童が門番となって目を光らせており、敬礼をしなかったり、いい加減にしていると注意されたと言われています。
昭和21年春に近所の方々総出で、住民の鳶職の技術指導のもとにコロを使用して、ここまで運んできたそうです。なお、「朝日稲荷」の名称は、この地がかって「朝日の長者」と呼ばれる人の屋敷だったことによります。
 
道を渡り、「猿坂」を上ります。

「猿坂」は、上池台5-31にある中谷駐在所前より曲がりながら登る坂道です。
『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸時代、猿坂周辺は近くにある林昌寺の広大な寺域であり、鬱蒼とした山林には猿が群生していたことから「猿坂」と名付けられたそうです。
この道は、池上本門寺前から仲池上の根方を通り、この「猿坂」を登って荏原台の台地に上がり、馬込の夫婦坂を経て旗岡八幡神社前に通じる古道です。
「猿坂」を上がりきると嶺道に出ます。道なりに曲がりくねった道を進むと、環状7号線の夫婦坂です。
弾丸列車構想に基づく大田区の耕地整理は、都立田園調布高校の近くも含めて、大規模広範囲に行われ、それによってできたバス通りが東京府下補助道「馬込道」(府道66号線)と呼ばれました。この道は、第二京浜国道(国道一号線)と環状7号線や中原街道を繋ぐ裏脇道となっていました。幻のルート66と呼ぶ人もいるそうです。
 
「貝塚坂」は、上池台4丁目と5丁目の境を登る「学研通り」の坂道です。貝塚を伴う集落遺跡があったことから名付けられました。大田区鵜の木、池上、山王と連なる荏原台の台地には、縄文海進の時代の集落遺跡が多く、「貝塚坂」周辺にも遺跡が存在しました。
 
「夫婦坂」は、上池台4丁目2番と中馬込1丁目1番の境から環状7号線を挟んで北馬込1丁目12番と13番の間を上がる坂道です。
その向かい合う様子が夫婦に例えられて、「夫婦坂」と呼ばれるようになりました。
 
環状7号線の夫婦坂交差点の場所は、台地の裾にあたり、小さな小川が流れていたそうです。「夫婦坂」の付近は、低地になっており、湧水があったといわれ、昭和初期までは、今よりも道幅も狭く、曲がっていて、竹藪や雑木林で囲まれた寂しい道であったそうです。

品川道の解説が書かれてました。

品川道は、古くから府中の大國魂神社御祭礼の時に、品川沖で禊に使われる清めの塩水を汲む禊祓式の祭事があり、その祭礼行列が通った道でもあります。
府中・調布・狛江・喜多見・瀬田・洗足・大井を結んだ道です。また、一部は筏道とも重複しており、「品川道(筏道)」との表記がある道標もあります。
 
品川道と仲通りの交差点に立つ道標です。
この辺りは、江戸時代には近郊散策地として鵜の木光明寺や嶺の薬師、御嶽山神社などの観光名所が沢山ありました。
殿様の参勤で供をして来た田舎侍たちが、江戸の思い出を作るのに、浅草などはお金を使ってしまうから、多摩川河畔の名所・旧跡を訪ねることで普段なまっている足腰を鍛え直すには、もってこいの散策路が揃っていたということも言えます。
東急大井町線荏原町駅近くで、それぞれに昼食を取りました。
午後は、荏原町駅を過ぎると、八幡山法蓮寺の見学からです。
 
ここは、文永年間に当地を治めていた荏原義宗が息子徳次郎を日蓮の高弟日朗の弟子にしたそうです。この徳次郎は、やがて朗慶上人(日蓮宗九老僧の一人)となり、荏原氏の居館跡に法蓮寺を開山します。法蓮寺は隣接する旗岡八幡神社の別当寺となりました。
法蓮寺第39代日詮は、寛政から文政年間に度々鷹狩を行った第11代将軍徳川家斉と寺の芝生で相撲を取り、「忖度」と言う言葉を知らなかったのか、家斉を投げ飛ばしてお褒めの言葉を戴いたそうです。将軍にしてみれば相撲に負けたからと言って、坊主を叱るわけにもいかず、周囲の人たちも場の空気を読めよという気持ちだったのではないでしょうか。
案の定、天保の改革(日蓮宗不受不施派の禁令)によって、江戸所払いを命じられたとのことです。
でも、荏原町は、江戸時代は朱引き線の外にあり、江戸に住んでいない人に江戸所払いを命じても意味がないとも思われるのですが、ここでは江戸・朱引き線内への立ち入りを禁じられたと解釈するべきなのかも知れません。

旗岡八幡神社です。当日は、七五三の祝い客で大繁盛でした。
御祭神は、誉田別命(応神天皇)・比売大神・息長帯比売命(神功皇后)です。
長元元(1028)年、上総・下総における平忠常の乱平定を命じられた甲斐守源頼信は、長元3(1030)年に勅命を奉じて、反乱地に向かう途中、一族・郎党と、この地で宿営した。
よく言われることですが、関東における源氏の根拠地・鎌倉を出た源頼信軍は、鎌倉街道を通り、当地に至ったと言われます。しかし、これには疑問点が2つあります。⓵この時点では、まだ鎌倉は桓武平氏の平直方が居館を構えていました。また、平安海進の状況がよくわかっていませんが、平間の渡しは海中だった可能性もあります。そのため、中原街道で丸子の渡しをわたり、沼部から池上道もしくは洗足池から品川道で旗の台に至った可能性があります。
社前を鎌倉道が通っているので、少しその時代に思いをはせてみます。
鎌倉は、平直方が居館を構えたことで中世史の舞台に躍り出ます。
平忠常の乱で朝廷は直方の父維時を上総介に任じ、その子直方に平忠常征伐を下します。
平直方は麾下の兵と東海、東山、北陸三道の軍を結集して討伐に向かいますが、忠常の母は、平将門の次女で将門の乱に匹敵する反乱になります。直方は持久戦で忠常軍を追い詰めますが、朝廷は直方の戦法を手ぬるいと、直方に変えて、かつて直方の家人であった河内源氏の源頼信(頼義の父)を甲斐守に任じ、忠常討伐を命じます。平忠常は、かつて源頼信の家人でもあり、すみやかに降伏しました。
この後、平直方は、本拠地である鎌倉を、娘婿の源頼義に与えます。直方が頼義に娘を娶らせた理由は、頼義の射騎の巧みさ(流鏑馬)に感服して、同じ部門の家のものとして誼を通じたい願いからと言われています。当時の結婚形態は、招請婚と言われるもので、父親の邸宅(館や所領)が娘に伝わり、それが婿に渡るのが貴族社会の風習で、生まれた子供は母方で育てられ、男子は男親の姓を名乗ることも許された。但し、嫡子(複数可)以外は親の官位を譲られることもなく、そのため、例えば関東の豪族ならば都の下級貴族(軍事貴族)に所領を差し出すことで、庇護が期待できる結婚形態でした。
関東平氏が勃興する理由がここにあります。直方が、その娘を家人であった河内源氏の源頼信の嫡子頼義と結婚させ、両方の血を受け継ぐ源義家が生まれます。
私たちは、源平の争乱で歴史を見がちですが、中央と地方の視点で歴史を紐解けば、また別の世界が見えるような気がします。
これより前の時代。宇多天皇の寛平の新政で、貴族の都市集住が義務付けられています。このことは、中央の貴族が地方の豪族を蔑視する風潮を生み出します。平直方が源頼義に託した思いとは、同じ桓武平氏中央貴族である平正盛・忠盛の庇護を受けるよりも、摂関家の家人である河内源氏と力を合わせ、自分たちの所領を守り抜こうという意欲の表れと理解したいのですが。
最後に、鎌倉幕府の親権北条氏は、この直方の子孫にあたります。ですから、鎌倉幕府の北条氏と源氏将軍の関係は、歴史的に見ても変わっていない関係を維持していたのだなと改めて感じました。

さて、散策に戻ります。
この地で宿営した源頼信は霊威を感得して源氏の氏神である八幡大神(清和源氏が氏神としたが、武神として平家の信奉)を奉斎して戦勝を祈願したことが発祥とされています。
高台に陣を敷き、源氏の白旗を靡かせ、大いに武威を誇ったことから「旗岡」・「旗の台」と呼ばれています。
鎌倉中期の源氏の荏原左衛門尉義宗(源義家の末裔)が当地の領主となり、八幡大神を
尊崇すること篤く、社殿を造営しました。
神社前の道は、鎌倉道の一つと言われいる仲通りです。
江戸時代は第2代将軍秀忠の祈願所であり、毎年2月15日には各地から集まった武士による競射が有名であった。試合後に一同が甘酒に舌鼓を打った故事に倣い、今も「甘酒祭」が行われています。
なお、この神社は、江戸名所図会で「中延八幡宮」で紹介されています。

立会川緑道を歩いて、旗の台の駅に向かいます。
碑文谷の碑文谷池と清水池に源を発し、大井で江戸湾に注ぎ、呑川水系と目黒川水系に挟まれた、かつて「荏原」と呼ばれた地域を流れ、昔は荏原川と言われました。
立会川の名称は、その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とか、鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を最後に見送る場所から「立会川」とか、中延の滝間(たきあい)を流れていた滝間川が立会川に変わったと言われています。
旗の台駅前で解散しました。
計3回の散策で「中原街道を歩く」を実践しました。
来年度は、多摩川の向こうにある武蔵国の中原街道にチャレンジしたいと思います。



 
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