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公開講座で中原街道を歩きました。<令和元年5月24日>

令和元年5月24日(金)

5月18日(土)、第1回公開講座「中原街道を歩く2」を実施しました。
 
今回は、参加者19名で田園調布高等学校を出発し、先ずは足慣らしのため、“おいと坂”を下ります。


 かつて、坂下の旧中原街道に「雄井戸(おいど)」と呼ばれる井戸があり、街道を隔て西側の「雌井戸(めいど)」とともに親しまれていたそうです。昔、最明寺入道北条時頼がこの地を訪れた際、雄井戸・雌井戸の水により病を癒したと言われています。この坂は、昔は竹藪の中の急な曲がった坂と言われ、昭和15(1940)年「弾丸列車」計画による耕地整理でまっすぐになりました。この計画では品川(機関区)~小田原まで、ほぼ直線にルートがひかれ、半ば強制的に、ある日、突然、関係者が土地保有者の元に来て、話し合いなど一切せず代わりに杭を打って帰り、買収価格の交渉なども、一切なかったと言われ、地主は相当低価格で買い叩かれたようです。応じなければ「非国民」のレッテルを貼られるますので、言うがままに従わざるを得なかったようです。但し、時局柄、土地の買収を機に空襲から逃れることが出来たので、好都合という面もあったとも言われています。



 真言宗智山派有慶山東光院は、今日行く小杉の西明寺の末寺になります、田園調布八幡神社の別当寺でした。田園調布八幡神社は、東急大井町線九品仏駅から多摩川方面への下り坂、田園調布雙葉学園の南側の窪地は「篭谷戸(ろうやと)」と呼ばれ、多摩川の入り江で、昔は、自然の良港になっていました。物資を積んだ舟が盛んに出入りしたそうです。中原街道は、鎌倉街道下ツ道でもあり、この篭谷戸の港にも接続していました。この港を中心とする地域には鎌倉武士が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地でした。神社は港の入り口に突き出した台地の上にあり、舟の出入りを監視出来る重要な場所でしたので、武士たちは鎌倉にある八幡神社を勧請したということです。
 別当寺である東光院の本寺西明寺は、北条家ゆかりの寺であり、中原街道の重要性を知らされます。
 東光院の境内左手、大師像の裏に高さ数十センチの「勇士の碑」があります。江戸開城時に影義隊の上野戦争などで江戸市中は避難民が右往左往し、暴行略奪が繰り返されたいた明治元(1868)年6月5日。「某藩の勤王の志士」3名は、沼部の住民と意思疎通が出来ず、1名が東池の畔で殺されて、他の2名は逃れ医師森家に救いを求めるが断られ、多摩川の河原で殺されます。のち森家が墓を建て、供養します。「勇志碑」には、「常楽院苦心解脱居士」「安楽院迷心得脱居士」「明樂院疑瑣心悟居士」の法名が並び、何者かはわかりません。或いは上野戦争で敗れ逃れた彰義隊の落ち武者だったかもしれないのです。



 東光院を出て、復元された六郷用水沿いに多摩川浅間神社に向かいます。


 六郷用水は、この辺りで国分寺崖線よりの湧水を受け入れています。今も滾々と湧き出ています。



 狛江から取水し、世田谷領を経て六郷領にひかれていた六郷用水は、途中の目減り分を湧水で足すことにしていましたので、この近辺には、何か所か湧水が見られるのです。
 上の写真の左側に見える隧道は、昭和9(1934)年竣工の物で、路面にあるマンホールに東京府のマークのあるものが2つあり、表面は摩耗が激しいのですが、マンホールマニアにはたまらないものです。
 大田区最古と言われる中原街道沼部隧道は、最初から道路交通用に開削され、六郷用水を地下水路で通しています。この道は多摩堤通り(都道11号大田調布線)の旧道ですが、多摩堤通りの現在の道も、丸子橋が完成時から開通していて、この道が本道になることはありませんでした。
 多摩川浅間神社のテラスは、映画「シン・ゴジラ」で自衛隊が東京に侵入しようとするゴジラを武蔵小杉地区で阻もうする自衛隊の本部が設置された場所で、多摩川の向こう岸がよく見えます。ゴジラは、鎌倉の稲村ケ崎附近由比ケ浜に上陸、武蔵小杉を経て江戸城に向かいます。鎌倉~江戸城の最短距離を歩くのです。鎌倉上陸のゴジラの地上50mにある眼には、果たして皇居が見えていたのでしょうか。


 多摩川治水記念碑は、浅間神社入口の脇、多摩堤通りに面して建っています。工事は、大正7(1918)年から昭和8(1933)年の15年間行われました。工事のきっかけは度重なる氾濫に苦しむ神奈川県橘樹郡御幸村など4村の住民数百人が編笠を目印に、月明かりを頼りに神奈川県庁に向かった「アミガサ事件」です。明治40(1907)年と明治43(1910)年、東北、関東、中部地方を中心に大洪水に見舞われ、多摩川も甚大な被害を被ります。御幸村南河原や対岸の矢口村や六郷村の堤防が決壊し、大森から鶴見にかけて多摩川の流域全体が冠水することになりました。当時、村レベルでも築堤は許可されましたが東京府の行政力が強く、神奈川県が堤を高くすると東京府が更に高い堤防を築くため、結局は増水時には神奈川県側が氾濫しました。また、帝都防衛の国策もあり、多摩川の築堤申請を認めていなかったのです。
 政府は、全国の河川改修に乗り出しますが、日清・日露戦争の財源が足りなくなり、2期に分けることとして多摩川は第2期に組み込まれます。大正2(1913)年多摩川で再び大洪水が発生し、御幸村村長始め橘樹郡下11村代表は神奈川県庁へ請願に行きますが、何の進展もありませんでした。翌大正3(1914)年、神奈川県は築堤にあたり東京府と交渉するも、結局内務省の許可を得られず、8,9月には2度にわたる大洪水に襲われます。業を煮やした住民が、9月16日「アミガサ事件」を起こしますが、同様に要領の得ない回答で何の進展もありませんでした。事件の影響で、翌年神奈川県知事が交代して、新県知事の努力によって多摩川改修工事が実現し、結果として二子橋先の宇奈根から河口までが完成しました。
 多摩川治水記念碑から丸子橋に向かう途中、脇を六郷用水が流れています。六郷用水とは江戸時代の農業用水で、天正18(1590)年小田原攻めで、徳川家康は関八州を与えら、江戸に入府、江戸周辺の開発に次々と手を付けていく。小泉次大夫吉次は旗本・代官で、先祖は駿河国富士郡小泉郷(現、富士宮市小泉)の今川家家臣植松家でした。家康に仕えた時に「小泉」姓を名乗ったともいわれています。
 家康から新田開発の代官に抜擢され、多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言し採用されました。以降稲毛・川崎領に移り住み、用水奉行を務めています。
 慶長2(1597)年、二ケ領・六郷用水に着手。小杉と狛江に陣屋を設ける。
 慶長16(1611)年、二ケ領・六郷用水が完成。「四ケ領用水」・「次大夫堀」とも呼ばれる。
 二ケ領用水は多摩川の水を布田の上河原堰から取り、川崎市の北から南へ縦貫、六郷用水は狛江から取水して大田区に至る延長23km、49カ村、約1500haに水を供給した。小泉次大夫は、使役に駆り出される領内農民の負担を考え、両用水の工事を3ヶ月交互に進め、延べ15年の歳月を要して完成させる。


 丸子橋を渡る。かつて上流の調布堰の先に「読売巨人軍」グラウンドがあり、また東急東横線鉄橋下は「日本ハム・ファイターズ」グラウンドで、両者の日本シリーズは“多摩川の合戦”と呼ばれました。ちなみに都立田園調布高校は体育祭における騎馬戦を“多摩川の合戦”と呼んでいます。
 丸子橋は、東京都大田区田園調布本町と神奈川県川崎市中原区上丸子八幡町間の主要地方道東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線の多摩川に架かる橋で、管理は東京都の役割です。河口から13kmの地点に架かり、橋の途中に都県境があり、東急線多摩川橋と東海道新幹線多摩川橋梁の間にある。初代丸子橋は昭和9(1934)年建設、平成12(2000)年に、現在の橋に架け替えられる。最初の架橋まで中原街道は渡し舟で渡っている。丸子橋架橋以前は砂利採取が盛んで、砂利船が朝早く引き潮に乗り、下流の六郷まで下り、帰りは南風に乗り上流に帰ったという。昭和9(1934)年頃、河川敷が野球場として整備され始め、昭和10(1935)年5月11日に開通式。開通後に周辺整備が進み、東京側は水泳場や“川の家”が立ち並ぶ。丸子橋下に昭和11(1936)年5月9日、多摩川スピードウェイが開業。日本及びアジア初の常設サーキットで1周1,200km、巾20mのオーバルダートトラックの左回りコース、堤防を利用したメインスタンドを持つ構造となっていた。6月7日開催の第1回全国自動車競走大会では、若き日の本田宗一郎が自作車で参戦、接触事故を起こして横転し、リタイア。骨折や視力低下等の後遺症を負ったという。跡地に造成されたのが、「日本ハム」の多摩川グラウンドだった。昭和22(1947)年11月6日、丸子橋川崎側で集団お見合いが実施される。参加者は戦争未亡人や婚期を逸した帰還兵中心で、お見合い中心の結婚観を変化させる開放的な時代への移行を象徴する出来事だったと言われている。平成14(2002)年には丸子橋北詰め付近に”アザラシのタマちゃん”が出現し、全国で有名になりました。
丸子橋を渡って右折、中原街道に入り少し行くと、新築マンションの玄関になっている平六大尽家の門が現れる。この先にある原本家の玄関だったものです。平六大尽は、馬の背に千両箱を積み吉原通いをしたと言われており、吉原中の遊女を総揚げして豪商紀伊国屋文左衛門と争ったという逸話を持っている人です。


 文筆家の大田蜀山人(南畝)が武蔵小杉を訪れています。文化4(1807)年8月、隅田川に架かる永代橋が崩壊する事故が起こり、その為、武蔵小杉の原平六(平六大尽)家に大田南畝が宿泊し多摩川の氾濫調整を行い、『調布日記』全5巻を著しました。大田南畝は、勘定所勤務の支配勘定を務め、幕府の中堅官僚である一方、文筆でも高い名声を持っていました。天明期は、田沼時代とも言われていて、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いた時代であり、南畝はその時流に乗っていました。天明3(1783)年頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得て吉原通いに精を出し、天明6(1786)年吉原松葉屋の遊女三保崎を見受けして、妾として自宅(神楽坂、現、東京理科大の裏辺り)の離れに住まわせます。しかし、天明7(1787)年、松平定信の寛政の改革が始めると田沼の息がかかった幕臣は粛清され、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されます。これを機に南畝は狂歌の筆を置き、幕臣として職務に励みながら、随筆などの執筆を始めました。寛政4(1792)年46歳の時、「学問吟味登科済」が創設されたのを機に受験し、当時小姓番士の遠山景晋(町奉行遠山景元の父)と“甲科及第首席合格”となり、2年後に「支配勘定」に任用されました。


 その先にあるのが、江戸時代割元名主(名主の代表格)を務めた安藤家の長屋門です。この門は江戸時代中期に、安藤家に武家の娘が嫁いで来た際、江戸の代官屋敷から移設した門と伝わります。なお、安藤家は、小田原北条氏の武将でしたが、土着して代々名主と小杉宿の問屋を務めました。


 原本家・石橋醤油店は、元は干鰯(ほしか)を商う肥料商で、主屋は今、生田の川崎市立日本民家園に移築されている。明治3(1872)年、農業しつつ醤油造りも始めました。大正12(1923)年に醤油醸造専業「キッコー文山」となり、昭和26(1951)年まで製造、当時の製造蔵が残ります。
 原家は、元々は千葉氏(坂東八平氏、関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族。桓武平氏良文流、通字は「胤」。一族に相馬氏、葛西氏(?)。香取神宮は下総国一宮で代々宗家当主の婚礼を実施)の流れを汲む旧家で、稲毛・川崎領が世田谷吉良氏の勢力下に入るとその傘下となり、昔は名主も務めていた。小杉御殿が完成した時には御馬屋敷近くに住んでいた。5代目原平六の頃、御殿跡に屋敷「平六大尽」を構え、天明4(1784)年には肥料商を開店、各地に石橋を架けたため、“石橋”という屋号で呼ばれました。


 小杉御殿は小田原北条氏滅亡後、関東に徳川家康が入府すると、江戸近郊外出時の休憩や宿泊に利用するため、各地の設置した御殿の一つであり、家康は鷹狩を名目に民情視察・土豪の懐柔・必要な人物との非公式謁見等政治上の意図で使用したといわれています。
 小杉御殿は、2代将軍秀忠が慶長13(1608)年に造営する。前年の慶長2(1597)年、多摩川沿岸巡見中の家康に代官小泉次大夫が新田開発を進言した。江戸時代初期、まだ東海道も整備されておらず中原街道は江戸と元箱根(小田原)を結ぶ主要な街道で、家康は上洛や駿府往復に用いていたし、鷹狩や巡察等に利用していた。秀忠が小杉陣屋の西隣に御殿を造営したのは、江戸から来た中原街道が、南に直角に折れ曲がる場所であり、西端は西明寺の門前で、街道に沿って東西に長い敷地であったと言われている。
 西明寺門前よりその西側を北に向かって歩きました。




NHKの番組「ブラタモリ」でも紹介された等々力競技場の河岸段丘で、競技場は江戸時代初めには多摩川でした。江戸城から船便で、いろんなものが御殿に届けられたことでしょう。


 西明寺門前まで戻って来ました。ここに小杉御殿跡を示す碑が建てられています。

 龍宿山金剛院西明寺は、真言宗智山派、本尊金剛界大日如来像です。創建年代は不詳と言われ、次回に訪れる予定である、聖武天皇(位724~749)の勅願寺(新御願寺)であった養護寺(影向寺)の三寺九院の一つで有馬(川崎市宮前区)に在りました。養護寺(影向寺)は朝廷との関わりも深く野川一帯は橘樹郡の官衙があり、養護寺を拠点とした文化の中心でした。
 西明寺の名は遠く弘法大師が中国に留学した折、唐の長安の都の宿坊の名前であり、帰国後に東国を巡る際に野川・有馬の地に留錫し、高弟泰範上人に命じて堂宇を建立させたとも、また、源義経が東国に向かう途中、有馬の西明寺に宿泊し、当時住んでいた尼僧のために、家臣の持田氏を残して寺を守護
させたとも言い、江戸時代の文書には弘長年間(1261~64年)の開基とあります。さらに北条時頼は中興の開山と言われ、弘長年間が時頼の亡くなった時期で何らかの関係があったと思われます。鎌倉時代、最明寺殿北条時頼は、しばしば有馬にあった養護寺(影向寺)を訪問し、その折に西明寺とも縁があり、再建に努めたと言われています。
 北条時頼は、(嘉禄3(1227)年5月14日(6月29日)~弘長3(1263)年11月22日(12月24日))、幼名戒寿
(戒寿丸)。戒名、最明寺道崇。墓所、福源山明月院。伊豆長岡・如意山最明寺。正五位下相模守。
鎌倉幕府第5代執権。北条時氏の次男。4代執権経時の弟。時輔、時宗らの父にあたる。若くして実父の時氏と死別。祖父の北条泰時に養育される。嘉禎3(1237)年4月22日、11歳で元服。時の将軍九条頼経の偏諱を賜り、五郎時頼と名乗る。仁治3(1242)年祖父泰時が死去し、兄経時が執権。すぐに病気となり、重篤となる。兄の代理で時頼が本来執権が担当するべき大事な仕事を代行する。寛元4(1246)年、経時の症状はさらに悪化し、一門、重臣達の「神秘の御沙汰」で時頼は、兄経時から執権職を譲られた。なお、時頼が経時を引退に追い込み、権力を掌握したとも言うが、当時の時頼に、そこまでの政治力はなく、自分に執権の座が回るように手配できたかは疑わしい。なお、経時には、二人の息子がいたが、執権は時頼に譲られた。その後、経時は出家し、程なく病死する。しかし、執権に就任直後、時頼は、幕府の政治中枢にある評定衆の大半(三浦泰村、毛利季光など)から支持されていなかった。前将軍藤原頼経をはじめとする反得宗勢力が勢い付き、寛元4(1246)年5月には頼経の側近で、北条氏の一族である名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するが、これを鎮圧し、反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京に強制送還(宮騒動)する。このことで時頼は執権としての地位を盤石なものとした。
 翌、宝治元(1247)年、安達氏と、有力御家人三浦泰村一族を鎌倉で滅ぼす(宝治合戦)。続いて千葉秀胤に追討の幕命を下し、上総国で滅ぼす。幕府内の反北条傾向の御家人を排除、北条氏の独裁政治が強まる。一方で六波羅探題重時(2代執権義時3男、母は正室比企朝宗娘。3代執権で異母兄泰時から娘婿の5代執権時頼まで補佐)を空位の連署に迎え、後に重時の娘葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲ける。建長4(1252)年、5代将軍藤原頼嗣を京に追放、新将軍に後嵯峨天皇皇子宗尊親王を擁立、親王将軍の始める。
 西明寺の山門左手に「鏡の池」がある。北条時頼の産湯の池と伝えられ、時頼の母の夢枕に弁財天が立った時に時頼が誕生したと言われる。「出世弁財天」とされ、祈願すれば出世できるとされているが、西明寺は近世になって小杉に移転するので、話自体に無理がある。境内には、他にも田中兵庫(丘隅)の歌碑や木食上人観正の碑があり、観音堂には行基作と言われる十一面観世音菩薩(御丈二尺五寸)が祀られている。西明寺境内で昼食休憩を取りました。
 
 午後は、西明寺門前から中原街道カギの道を行きます。参道入り口から小杉十字路へのクランクです。道の由来は、2代将軍秀忠が小杉御殿を建てた時、御殿防衛の為に造られた道で城下町によくみられます。背後に多摩川を控え、西明寺や妙泉寺、さらに小杉十字路先の泉澤寺等で御殿の守りを固めていました。


 これから小杉十字路までは歩道もない狭い中原街道です。カギの道を曲がって直ぐに、小杉駅供養塔(附木屋の供養塔)があります。左側面に「武州橘樹郡稲毛領小杉駅」。上台には「東江戸 西中原」と刻まれる。東海道で宿場になった川崎宿よりも50年程遅れて、延宝元(1673)年に小杉も宿になりました。

 油屋の庚申塔は庚申様の供養塔で、昔から油屋の屋号をもつ小林家の角にあり、そう呼ばれています。
台座に「東江戸道 西大山道 南大師道」と刻まれ、昔は川崎大師への府中街道の分岐点でした。




 小杉十字路は、中原街道と府中(川崎)街道との分岐点です。武蔵小杉は、稲毛領・川崎領・六郷領(世田谷領)などの天領の中心地であり、交通の要所でした。また、戦争になると武器・兵糧輸送の要となる地点でもあり、古代からその要因は変わっていなかった。陣屋裏(北)を多摩川が流れ、水運で海から荷駄輸送、上流から材木の筏流しも出来た。南表には中原街道が通じ、丸子の渡しから六郷領に渡ることができる。中原街道を少し西に行けば、府中(川崎)街道と交差する小杉十字路があり、府中街道は八王子道とも言われ、南東に行けば川崎宿、北西に行けば溝口で大山街道(矢倉沢往還)さらに菅から府中を経て、八王子や足利に繋がっている。


 泉澤寺は、世田谷に勢力を持っていた吉良氏の菩提所として延徳3(1491)年千歳烏山に創建された浄土宗の寺で書類焼失の為、天文19(1550)年吉良頼康が現在の地である上小田中に再興する。当時吉良氏は、世田谷から蒔田までの領地を支配し、小田中はその中間地でもあった。吉良氏は、税を免除して居住を促し、門前町を開いて、この地の繁栄を図ったと言われている。
 かつて寺の周りには構え掘りと呼ばれる1.8mの堀があり、今は、それはなくなりニヶ領用水となって、その姿をとどめている。吉良氏が寺を再興する時、世田谷と蒔田の間で軍勢を移動させる時の軍事拠点として利用する目的があったと推察できる。小田原北条滅亡後。吉良家の勢力は衰えますが上小田中には吉良家の家臣が入り、大谷戸(おおがやと)は、その陪臣の原氏が開墾したといわれています。
 世田谷吉良氏は、足利氏と祖を同じくし、源義家の子孫、足利家当主義氏には3人の男子がおり長男の義継と次男の長氏は側室の子で、正室の子の三男泰氏が足利家を継いだ。長男義継は関東に在地で、東条吉良氏を名乗る。次男長氏は京で西条吉良氏を名乗り、この系統が元禄赤穂事件の一方の当事者である高家筆頭吉良上野介の系統になる。東条吉良家は、幾多の変遷の後に関東公方足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領し、豪徳寺の近くに本城を、奥沢に支城(九品仏浄真寺)を築いた。扇ガ谷上杉家家宰の太田道灌とともに、長尾景春の乱で豊島氏と戦い、江戸城を防衛したりもしている。
 吉良頼康の代に小田原北条氏の武蔵進出で、北条氏綱と婚姻関係を結び、世田谷城を北条氏に譲り、横浜の蒔田に本拠を移した。豊臣秀吉の小田原攻めの際は戦わずに逃亡し、領地を没収されるが、家康に取り立てられ、蒔田氏となり、三河吉良家の改易により、蒔田姓から吉良姓に復姓している。





 ニヶ領用水神地(ごうじ)橋。多摩川中流の南岸、中野島から取水して稲毛(稲城)、川崎のニヶ領を潤す用水として、慶長16(1611)年に完成したのがニヶ領用水です。午前中に散策した多摩川北岸の六郷用水と同時に、小泉次大夫の進言と指揮により、完成までに14年かかったものです。この工事は、家康から黒印状を与えられた徳川家のちに幕府直轄普請事業でした。黒印状は、天領だけでなく私領の農民も人足として挑発できるもので幕府権力を背景にしたものでした。この神地橋周辺は、先程見た泉澤寺の堀を利用したもので、ニヶ領用水は多摩川の流れから離れ、南に直行します。眼の前には武蔵小杉のタワーマンションが聳えていますが、そこは東急東横線が敷設された時に工場用地になり、やがて軍需工場が林立した場所です。工場用水はニヶ領用水が使用されました。江戸時代は、市ノ坪と呼ばれて、江戸の花卉栽培の中心地でもあり、近郊野菜も作られていましたが、いずれもニヶ領用水の水を利用したものでした。


 ニヶ領用水沿いの整備された遊歩道を通って、武蔵小杉駅前に到着しました。
 
 次回は、10月19日(土)にJR武蔵中原駅から影向寺経由東急線梶ヶ谷駅までの野川の地を歩きます。
 
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